真田幸隆(さなだゆきたか)
戦国武将[日本]
(天正2年5月19日没)
(ユリウス暦) 1574年 6月8日 死去享年62歳
真田 幸綱(さなだ ゆきつな) / 真田 幸隆(さなだ ゆきたか、こうりゅう)は、戦国時代の武将。
信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。
息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。
幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。
諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている
。
「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では一徳斎の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている。
出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが信濃に侵攻した武田晴信に仕えて旧領真田本城(松尾城)(長野県小県郡真田町)を回復。
以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。
生涯
信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の豪族・海野棟綱の子、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子として生まれたとされている。
幸綱の出自については様々な家系図とともに諸説あり、真田氏自体も幸綱以前の記録が少ないとはいえ存在しているため、真田頼昌を棟綱の娘婿とする説や、海野棟綱の子である幸綱が頼昌の養子になったなど、様々な見解があり確定してい ……