阿部重次(あべしげつぐ)
武蔵岩槻藩主[日本]
(慶安4年4月20日没)
1651年 6月8日 死去殉死享年54歳
阿部 重次(あべ しげつぐ)は、江戸時代前期の大名。
武蔵岩槻藩2代藩主。
別名に三浦 重次(みうら しげつぐ)。
徳川家光のもとで老中を務める。
阿部家宗家2代。
官位は山城守、対馬守。
生涯=
大坂城代を務めた初代藩主・阿部正次の次男として誕生した。
初め、男子に恵まれなかった三浦重成(義次)の婿養子となったが、後に重成に男子(三浦重勝)が生まれたために、重成は重次に近江国浅井郡3千石の所領を分与し、別家を立てさせた。
大坂夏の陣の際には病気の重成に代わって、重次が三浦家を率いて出陣した。
のち、三浦家は重勝死去で断絶となり、重勝の弟の系統が阿部家の家臣となっている。
実兄で世嗣の政澄が死去したため阿部家に戻り、相続した。
同時期に老中を務めた阿部忠秋は従弟で、重次が本家筋にあたる。
政澄の遺児正能は、正次から分知を受け別家を立てた後、忠秋の養嗣子となり跡を継いだ。
元和2年(1616年)7月6日に幕府から改易された松平忠輝(家光の叔父)の子・徳松を預かるが、重次に冷遇された徳松自身は寛永9年(1632年)に焼身自殺する事件を起こしている。
父・正次は寛永3年(1626年)から死去する正保4年(1647年)まで大坂城代に任じられているが、その間に重次も寛永15年(1638年)に老中に任命されている。
主君の将軍家光はしばしば日光東照宮に社参しているが、江戸からの1泊目が岩槻にあたり、岩槻城主である重次が接待にあ ……
阿部重次が亡くなってから、373年と164日が経過しました。(136402日)