箕作阮甫(みつくりげんぽ)
蘭学者[日本]
(文久3年6月17日没)
1863年 8月1日 死去享年65歳
箕作 阮甫(みつくり げんぽ、寛政11年9月7日(1799年10月5日) - 文久3年6月17日(1863年8月1日))は、日本の武士・津山藩士、蘭学者である。
名は貞一、虔儒。
字は痒西、号は紫川、逢谷。
蘭方医を始め、語学、西洋史、兵学、宗教学など広範囲にわたり洋学を修め多方面で活躍。
江戸幕府が設立した蕃書調所の主席教授を務め、お玉ヶ池種痘所の設立にも尽力し、現在の東京大学の基礎を造った。
ペリー来航時には米国大統領国書の翻訳を行ったほか、ブリッジマンの『聯邦志略』を日本で初版し、多くの日本人に影響を与え日本の近代化に貢献した。
西洋文明を深く学ぶためキリスト教にも関心を持ち、キリシタン禁制の時代に旧約聖書を訳した『讀旧約全書』を著した。
略歴=
津山藩医箕作貞固(三代丈庵)の第三子として美作国西新町(後に津山東町、現在の岡山県津山市西新町)に生まれる。
医家としての箕作は、阮甫の曾祖父貞辨(初代丈庵)からで、西新町に住み開業した。
父貞固の代になり天明2年10月24日(1782年11月28日)津山藩主松平家の「御医師並」に召し出されて十人扶持をもって町医者から藩医に取り立てられた。
阮甫は4歳で父をなくし、12歳で兄豊順をなくして、家督を相続することになる。
藩の永田敬蔵(桐陰)・小島廣厚(天楽)から儒学を学ぶ一方、文化13年(1816年)には京都に出て、竹中文輔のもとで3カ年間医術習得にはげんだ。
文政2年(1819年)には、修業を ……
箕作阮甫が亡くなってから、161年と112日が経過しました。(58917日)