箕作秋坪(みつくりしゅうへい)
洋学者、教育者[日本]
1886年 12月3日 死去享年61歳
箕作 秋坪(みつくり しゅうへい、文政8年12月8日〈1826年1月15日〉 - 明治19年〈1886年〉12月3日)は、江戸時代末期から明治時代の洋学者(蘭学者)、教育者、啓蒙思想家。
諱は矩、通称は文蔵、号は宜信斎。
生涯=
文政8年(1826年)、備中国(現・岡山県)の儒者菊池陶愛(菊池應輔亮和の婿養子である医者菊池好直正因の養子である菊池慎の子。
名は文理。
通称は士郎)の次男として生まれた。
美作国津山藩士の箕作阮甫、次いで緒方洪庵の適塾にて蘭学を学び、それぞれの弟子となった。
嘉永3年(1850年)、阮甫の二女・つねと婚姻して婿養子となり、長男・奎吾(夭折)、次男・数学者の大麓(秋坪の実家・菊池家の養嗣子)、三男・動物学者の箕作佳吉、四男・歴史学者の箕作元八の4男をもうけた。
幕末の外交多事のなか、幕府天文方で翻訳に従事。
安政6年(1859年)、幕府蕃書調所(東京大学の前身)の教授手伝となる。
文久元年(1861年)の幕府による文久遣欧使節に、福澤諭吉・寺島宗則・福地源一郎らと随行しヨーロッパを視察。
慶応2年(1866年)、樺太国境交渉の使節としてロシアへ派遣された。
明治維新後は、かつての攘夷論者が率いる明治新政府に仕えるのを好まず、三叉学舎を開設。
三叉学舎は当時、福沢諭吉の慶應義塾と並び称される洋学塾の双璧であり、東郷平八郎・原敬・平沼騏一郎・大槻文彦らが学んだ。
また、専修学校(専修大学の前身)開設に際しては、法 ……
箕作秋坪が亡くなってから、137年と353日が経過しました。(50392日)