末弘厳太郎(すえひろいずたろう)
法学者[日本]
1951年 9月11日 死去享年64歳
末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)11月30日 - 1951年(昭和26年)9月11日)は、大正・昭和期の日本の法学者。
専門は民法・労働法・法社会学。
学位は法学博士(1920年)。
東京大学名誉教授。
正三位勲一等瑞宝章。
川名兼四郎門下。
弟子に吾妻光俊、石川吉右衛門、戒能通孝、小林巳智次、安田幹太など。
経歴=
生後45日の厳太郎(左は姉)
1888年(明治21年)、大審院判事であった末弘厳石(すえひろ いずし(げんせき))の長男として山口県に生まれる。
東京開成中学、正則英語学校、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月に東京帝国大学法科大学独法科を優等で卒業し銀時計を授与される。
同大大学院に進み、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学助教授となる。
1917年(大正6年)11月、民法研究のためシカゴなどへ留学。
1920年(大正9年)4月、法学博士の学位を取得し、同年9月に帰国。
1921年(大正10年)4月に東京帝国大学法学部教授に就任。
1942年(昭和17年)3月から1945年(昭和20年)3月まで東京帝大法学部長を務めた。
1946年(昭和21年)3月31日、東京帝国大学を辞職。
その後、GHQの政策の影響を受けて教職追放を受けた。
1950年(昭和25年)9月に直腸癌の手術を受け、1951年(昭和26年)9月11日、東京都世田谷区宇奈根町の自邸にて死去。
62歳没。
墓所は豊島区駒込の染井霊園。
社会的活動=
二・一ゼネスト突入直前、中央労働委会長とし ……
末弘厳太郎が亡くなってから、73年と28日が経過しました。(26691日)