徳田球一(とくだきゅういち)
政治家[日本]
1953年 10月14日 死去享年60歳
徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年〈明治27年〉9月12日 - 1953年〈昭和28年〉10月14日)は、日本の政治運動家、共産主義者、革命家、弁護士、政治家。
衆議院議員(3期)、戦前の非合法政党時代から戦後初期に至るまでの日本共産党の代表的活動家で、戦後初代の書記長を務めた。
徳球の愛称で知られる。
来歴=
生い立ち=
沖縄県国頭方名護間切(現:沖縄県名護市)で、鹿児島の豪商の庶子であった父とウチナーンチュの母の間に生まれる。
家は沖縄の中にあっては裕福で、「球一」の名は「琉球一の人物」になることを願って付けられた。
母方の祖母は高利貸しと泥藍売りを営み、徳田もこの稼業を手伝っていたが、強欲な祖母に反発して「お金を借りてはだめだ」と借りに来た者に対して注意するなど、正義感が強い子供であった。
旧制沖縄県立第一中学校(現:沖縄県立首里高等学校)卒後、医師を目指して旧制第七高等学校に入学するも差別的な扱いに反抗し、経済的な事情もあって退学。
1917年(大正6年)2月に上京し、逓信省東京貯金局で働きながら日本大学専門部法律学科の夜間部に通った。
1918年米騒動に参加し、山川均のもとへ出入りするようになる。
1920年(大正9年)3月に日大を卒業した後、判事検事登用試験に合格し、翌年に弁護士として開業している。
ソ連との関わり・党再建活動・入獄=
1920年に日本社会主義同盟に参加。
1921年(大正10年)同年ソビエト連邦を訪問、イル ……
徳田球一が亡くなってから、71年と38日が経過しました。(25971日)