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鍋島勝茂(なべしまかつしげ)

戦国武将、肥前佐賀藩初代藩主[日本]

(明暦3年3月24日没)

1657年 5月7日 死去享年78歳

鍋島勝茂 - ウィキペディアより引用

鍋島 勝茂(なべしま かつしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
肥前佐賀藩主。
生涯= 豊臣政権下の鍋島氏= 天正8年(1580年)10月28日、鍋島直茂の長男として、石井生札の屋敷で生まれる。
母は飯盛城主石井常延の次女・彦鶴。
一時期、龍造寺隆信の次男・江上家種の養子になったこともある。
隆信の死後、龍造寺政家は、豊臣秀吉から肥前国7郡30万9902石を安堵されたが、朱印状は龍造寺高房宛となっている。
鍋島直茂はうち3万石余(直茂・勝茂の合計高4万4500石)を与えられ 、龍造寺氏領の支配を委任され実権を握った。
しかし高房が幼少であることから、筆頭重臣である鍋島直茂が代わって国政を行う状態という、家督と国政の実権が異なる状況が続いていた。
そのため、鍋島家は正式な大名ではなかったわけであるが、勝茂は豊臣時代から既に大名世子としての扱いを受けていた。
朝鮮出兵においても父・直茂が龍造寺軍の総大将として出陣している。
天正17年(1589年)、豊臣秀吉より豊臣姓を下賜された。
慶長2年(1597年)からの慶長の役では父と共に渡海し、蔚山城の戦いで武功を挙げた。
関ヶ原= 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、伏見城攻めに参加した後、伊勢国安濃津城攻めに参加するなど、西軍主力の一人として行動した。
しかし父・直茂の急使により、すぐに東軍に寝返り、立花宗茂の柳川城、小早川秀包の久留米城を攻撃し ……

鍋島勝茂が亡くなってから、367年と195日が経過しました。(134242日)