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龍造寺高房(りゅうぞうじたかふさ)

戦国大名[日本]

(慶長12年9月6日没)

1607年 10月26日 死去自害享年22歳

龍造寺高房 - ウィキペディアより引用

龍造寺 高房(りゅうぞうじ たかふさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。
肥前国佐賀藩主。
官位は従五位下・駿河守。
生涯= 天正14年(1586年)、龍造寺政家の4男として誕生。
父・政家が病弱だったため、天正15年(1590年)に僅か5歳で家督を相続した。
しかし、佐賀藩の実権は豊臣秀吉の承認の下、重臣の鍋島直茂とその子勝茂に握られた。
そのため、当時の佐賀藩は名を龍造寺氏が持ち、実を鍋島氏が握るという暫定的な二重統治体制となっていた。
龍造寺政家に、羽柴の姓と豊臣の本姓の両方が与えられたのに対し、鍋島直茂・勝茂には豊臣の本姓のみが与えられた。
後に、高房にも羽柴姓が与えられた。
政家始め龍造寺一門は、肥前の支配権を龍造寺氏に戻すべく、高房の成人後に藩政を高房に戻す旨の請文を直茂に書かせると共に、高房を直茂の養子にする等の手を打ったが、逆に、朝鮮出兵や関ヶ原の戦い等を通じて鍋島氏の肥前支配はより強固なものとなり、これらの措置の意味は実質的に失われていった。
高房は、直茂の孫娘を娶って諸大夫として江戸幕府に従う身となり、徳川家康の人質になっていたが、慶長12年(1607年)、鍋島氏に実権を握られて憤慨して失望し、室を殺害して自らも腹を斬り死のうとしたが果たせず、そのときの傷を養生するために肥前への帰還を許されたが、故郷で再び自害に及び死去した。
享年22。
この不祥事により、鍋島直茂は ……

龍造寺高房が亡くなってから、416年と346日が経過しました。(152290日)

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