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河鍋暁翠(かわなべきょうすい)

日本画家浮世絵師[日本]

1935年 5月7日 死去脳溢血享年67歳

河鍋暁翠 - ウィキペディアより引用

河鍋 暁翠(かわなべ きょうすい、慶応3年12月10日〈1868年1月4日〉 - 昭和10年〈1935年〉5月7日)は、明治時代から昭和時代初期の日本画家、浮世絵師。
来歴= 百福図(1890年)河鍋暁斎記念美術館蔵 浮世絵師で狩野派の絵師であった河鍋暁斎の門人で、暁斎3番目の妻ちかとの間に生まれた長女。
名はとよ、初め暁辰と号す。
江戸生まれ。
数え5歳の頃、父に「柿に鳩の図」(河鍋暁斎記念美術館蔵)の手本を与えられ、日本画の手ほどきを受け始めた。
暁翠はこの手本を生涯大事にしていたという。
17歳の時には第2回内国絵画共進会に出品するまでの実力を備えていた。
『河鍋暁斎絵日記』には彩色を手伝ったり、時に代稽古に出かける姿がしばしば描かれている。
その後も明治20年代にはいくつかの展覧会に出品し、その彩色を評価され、内国絵画共進会や内国勧業博覧会で入選する。
明治21年(1888年)土佐派・住吉派の絵師山名貫義に弟子入り、父の狩野派とは異なる流派を学び、明治22年(1889年)22歳の時に父暁斎と死別している。
明治24年(1891年)、美術展覧会に川鍋とよ として「佳人詠落花図」を出品し、褒状二等を受賞している。
明治29年(1896年)日本美術協会会員にもなっている(亡くなるまで在籍)。
明治35年(1902年)、東京女子美術学校(現・女子美術大学)開校の翌年、父の弟子だった島田友春の代わりに初の女性教授となる。
この時の教え子に、山脇敏子がいる。
この間 ……

河鍋暁翠が亡くなってから、89年と178日が経過しました。(32685日)

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