平賀朝雅(ひらがともまさ)
武将[日本]
(元久2年8月2日没)
(ユリウス暦) 1205年 9月16日 死去自害享年24歳
平賀 朝雅(ひらが ともまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての鎌倉幕府の御家人。
新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の四男。
母は頼朝の乳母比企尼の三女。
妻は北条時政と牧の方の娘。
名は朝政とも。
生涯=
『愚管抄』によると源頼朝の猶子となっており、『吉見系図』の源範頼の項には頼朝から「朝」の一字を給わったとある。
任命時期は不明ながら父・義信(1184年 - 1195年)、兄・大内惟義(1195年 - ?)の後を継いで武蔵守に任じられている。
建仁2年(1202年)、比企氏出身である母が死去。
翌建仁3年(1203年)9月に起こった比企氏と北条氏の対立による比企能員の変では、双方と縁戚関係を持つ朝雅は北条氏側として比企氏討伐軍に加わっている。
2代将軍・源頼家が追放され、3代将軍・源実朝が擁立された直後、政変による鎌倉幕府の動揺に乗した謀反を防ぐべく京都守護として都に派遣された。
同年12月、幕府の政変に乗じて伊勢国と伊賀国で平家残党の反乱(三日平氏の乱)が起こると、守護の山内首藤経俊が逃走し朝雅に鎮圧が命じられる。
翌元久元年(1204年)4月、朝雅はその鎮圧に成功し、その功績により伊賀・伊勢の守護職に任じられる。
また『明月記』によると鎮圧の便宜を図るため、後鳥羽上皇から伊賀国の知行国主に任じられており、御家人としては破格の扱いを受けていた(朝雅は里見義成を伊賀守に補任している)。< ……