楫取美和子(かとりみわこ)
吉田松陰の妹、久坂玄瑞未亡人、楫取素彦夫人[日本]
(旧名・杉文)
1921年 9月7日 死去享年79歳
楫取 美和子(かとり みわこ、天保14年(1843年) - 1921年(大正10年)9月7日)は、江戸時代末期(幕末)から大正時代にかけての女性。
幕末の思想家・吉田松陰の妹。
松陰門下の久坂玄瑞に嫁いだが、禁門の変で久坂が自害して未亡人となる。
後に実姉の元夫で群馬県令や貴族院議員を歴任した男爵楫取素彦と再婚してこれを支えた。
旧姓名は杉 文(すぎ ふみ)。
生涯=
天保14年(1843年)、杉百合之助(常道)の四女として誕生、文と名付けられた。
これは叔父であり松下村塾の創立者である玉木文之進から1字をとって与えられた名である。
兄に梅太郎、寅次郎(吉田松陰、この頃すでに吉田家へ養子に出て家督を継いでいた)、姉に千代、寿、艶、弟に敏三郎がいた。
艶は文の生後すぐに夭折し、長女の千代は児玉祐之に、次女の寿は小田村伊之助(後の楫取素彦)のもとへそれぞれ嫁ぐ。
安政4年(1857年)12月5日、久坂玄瑞と結婚する。
当初は勤王僧侶・月性が文を桂小五郎(後の木戸孝允)の妻に推したこともあったが、最終的には玄瑞の才を高く評価する松陰の強い勧めがあったという。
また、玄瑞に対しては松下村塾の年長者である中谷正亮が文との縁談を持ちかけた。
玄瑞は文のことを「好みの容姿ではない」と断ろうとしたが、中谷はそれに立腹して「見損なった、君は色で妻を選ぶのか」と詰め寄り、玄瑞はやむを得ず縁談を承諾したという。
ところが玄瑞はまもなく京都・ ……
楫取美和子が亡くなってから、103年と75日が経過しました。(37696日)