戸川達安(とがわみちやす)
戦国武将、備中庭瀬藩初代藩主[日本]
(寛永4年12月25日没)
1628年 1月31日 死去享年62歳
戸川 達安(とがわ みちやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
当初は備前の宇喜多氏の家臣(知行2万5,600石)であったが出奔、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その功により備中国庭瀬藩初代藩主となる。
生涯=
永禄10年(1567年)、宇喜多氏家臣・戸川秀安の嫡男として生まれる。
戸川氏は美作菅氏の一流だったとされる。
天正7年(1579年)、備前辛川の役において13歳で初陣を飾り、小早川隆景を撃破。
父・秀安の隠居により家督を相続し、備前の常山城を守備した。
織田軍と共に備中高松城攻めに参陣し、毛利方の支城である冠山城、宮路山城、加茂城などを攻略した。
小牧・長久手の戦いや紀州根来攻めにも参陣した。
四国征伐に一宮城攻め、九州征伐に岩石城と益富城、日向高城攻め、小田原征伐に山中城、小田原城攻略、文禄・慶長の役に加藤清正をオランカイ境に援け、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦い、第二次晋州城の戦い、南原城の戦いに奮戦、常に宇喜多軍の主力として出陣、戦陣に武勇や知略を発揮して数々の戦功を立てた。
特に「根白坂の戦い」に勇猛の島津軍と対戦して、大勢の敵兵を討ち取り一番討ちの戦功を立てるの大勝利と知られる。
当時の宇喜多氏は直家の没後、父の秀安も含めた宇喜多三老と呼ばれる重臣が当主の秀家を後見する体制をとっていた。
しかし、天正19年(1591年)に長船貞親が暗殺され、文禄元年(1592年)には、岳父でもあ ……
戸川達安が亡くなってから、396年と292日が経過しました。(144931日)