宗義智(そうよしとし)
対馬府中藩初代藩主[日本]
(慶長20年1月3日没)
1615年 1月31日 死去享年48歳
宗 義智(そう よしとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。
対馬国領主宗氏20代当主。
対馬府中藩初代藩主。
秀吉の命令で、小西行長らと共に、李氏朝鮮との交渉に尽力。
文禄・慶長の役では一番隊の先導役として活躍し、講和交渉にも尽力した。
関ヶ原の戦いでは西軍についたが所領は安堵され、日本と朝鮮との国交回復に尽力し、朝鮮との和平条約を結んだ。
生涯=
家督相続=
永禄11年(1568年)、宗家第15代当主・宗将盛(まさもり)の四男(異説として五男)として生まれた。
長兄に宗茂尚(しげひさ)がいたため、宗家第17代当主・宗義調が隠居したときには茂尚が家督を継いで当主となったが、茂尚が早世し、さらにその後を継いだ次兄・宗義純(よしずみ)も早世したため、天正7年(1579年)1月に義調の養子となって家督を継ぎ、宗家の当主となった(天正8年(1580年)相続説もある)。
天正15年(1587年)5月、隠居していた養父・義調が当主として復帰したため、義智は家督を義調に返上することとなった。
これは同年に豊臣秀吉による九州征伐が始まったためであり、義智は義調と共に秀吉に従ったため対馬国一国を安堵された。
このころ、秀吉から李氏朝鮮を服属させるようにとの命令を受け、義調や小西行長、島井宗室らと共に交渉に尽力する。
天正16年(1588年)に義調が死去するなどの悪条件もあって、交渉は思うように進まなかった。
なお義調の死後、 ……
宗義智が亡くなってから、409年と292日が経過しました。(149679日)