三島通庸(みしまみちつね)
薩摩藩士、官僚、子爵[日本]
1888年 10月23日 死去享年54歳
三島 通庸 (みしま みちつね、1835年6月26日(天保6年6月1日) - 1888年(明治21年)10月23日)は、日本の内務官僚。
位階・勲等・爵位は正三位勲二等子爵。
通称は弥兵衛。
林太郎、千木とも。
県令時代は、反対派を押し切り強力に土木工事を進める手法から「土木県令」や「鬼県令」の異名[誰によって?]で呼ばれた。
生涯=
薩摩藩士時代=
薩摩藩士で鼓指南役の三島通純と秀(旧姓・池上)の長男として、薩摩国鹿児島郡武村(現在の鹿児島市上之園町[* 1])に生まれる。
幼名は弥兵衛。
3歳下の弟に伝之丞、妹・ぬい、がいる。
三島家は藩の御能方で金春流の鼓指南役を勤め石高は50石弱であった。
上之園郷中に属し、小野道場で示現流とともに薬丸自顕流の剣術を習得した。
なお、小野道場には3歳年上の海江田信義がいた。
また、伊地知正治から兵学を学んだ。
嘉永6年(1853年)に弟の伝之丞が郷中で侮辱を受けたことから相手を斬ったため、伝之丞が切腹。
安政2年(1855年)、弥兵衛が起こした決闘を巡る裁定により謹慎を命じられ、鹿児島城下から西へ十二里離れた隅之城で3年間生活する。
安政5年(1858年)、父・通純が死去。
弥兵衛は許されて鹿児島城下へ戻る。
文久2年(1862年)3月、島津久光の警護のための軍勢140人余りの一人に選ばれ、十三番隊に属して上洛。
大阪藩邸に滞在中、柴山愛次郎と橋口壮介、弟子丸龍助らから同じ郷中出身の柴山景綱と共に精忠 ……
三島通庸が亡くなってから、136年と28日が経過しました。(49702日)