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樺山資紀(かばやますけのり)

薩摩藩士政治家海軍大将、伯爵[日本]

1922年 2月8日 死去享年86歳

樺山資紀 - ウィキペディアより引用

樺山 資紀(かばやま すけのり、天保8年11月12日(1837年12月9日) - 大正11年(1922年)2月8日)は、日本の海軍軍人、政治家。
階級は海軍大将、陸軍少将。
栄典は従一位大勲位功二級伯爵。
薩摩藩士・橋口家の三男、政治的な問題により樺山家の養子になる。
警視総監(第3代)、海軍大臣(第2代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)、枢密顧問官、内務大臣(第15代)、文部大臣(第14代)を歴任した。
生涯[編集] 薩摩国鹿児島城下加治屋町二本松馬場(高見馬場方限)に薩摩藩士・橋口家の三男に生まれ、覚之進と名づけられ育てられる。
のちに同藩士、樺山の養子となる。
薩英戦争・戊辰戦争に従軍の後、明治4年(1871年)に陸軍少佐に任ぜられ、明治5年(1872年)より南清に出張、台湾出兵に従軍。
西南戦争では熊本鎮台司令長官・谷干城少将の下、同鎮台参謀長として熊本城を負傷しつつも死守する。
治癒後も転戦して軍功を重ね明治11年(1878年)に大佐、明治14年(1881年)には警視総監兼陸軍少将に昇進した。
その後は、西郷従道の引きで海軍へ転じ、明治16年(1883年)に海軍大輔、同19年(1886年)には海軍次官となる。
国政では明治23年(1890年)から同25年(1892年)にかけての第1次山縣内閣と第1次松方内閣で海軍大臣をつとめる。
第2回帝国議会(1891年11月21日召集)において、政府提出の軍艦建造案が「海軍部内の腐敗が粛清されなければ予算は認められない」と否決され ……

樺山資紀が亡くなってから、102年と169日が経過しました。(37425日)