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河野敏鎌(こうのとがま)

土佐藩士政治家、子爵[日本]

1895年 4月20日 死去享年52歳

河野敏鎌 - ウィキペディアより引用

河野 敏鎌(こうの とがま、旧字体:河野 敏󠄀鎌󠄁、1844年11月29日(天保15年10月20日) - 1895年(明治28年)4月24日)は、日本の政治家。
栄典は従二位勲一等子爵。
幼名は万寿弥(ますや、旧字体:萬壽彌)。
経歴= 天保15年(1844年)10月、土佐藩郷士の河野通好の長男として高知に生まれる。
安政5年(1858年)3月、江戸へ遊学して安井息軒の門下となり、文久元年(1861年)に帰国。
土佐勤王党に加入して武市半平太や坂本龍馬らと交友関係を持つ。
文久2年(1862年)、五十人組に参加し京都と江戸の間を往来して国事に奔走した。
ところが文久3年(1863年)に藩主・山内容堂が佐幕派に鞍替えしたことから藩論が転換、このため投獄され6年間の獄中生活を送る。
その際、厳しい拷問にも耐えて同志を守り通したと伝えられる。
永牢の宣告を受けたが、河野は逆にこれを誇りにしたという。
慶応4年(1868)に江戸幕府が崩壊して明治維新がはじまると、罪を免じられて出獄。
同藩の後藤象二郎の手引きで大坂に上り、江藤新平の知遇を得る。
明治2年(1869年)4月に侍詔局出仕、のちに広島県大参事、司法大丞兼大検事となる。
明治5年 (1872年)に司法少丞として岸良兼養、川路利良、井上毅、鶴田皓ら8名の理事官とフランスの司法制度調査のため岩倉遣外使節団として渡欧。
パリでボアソナードの講義をうけ、政府の法律顧問として招聘する契約に立ち会う。
明治7年(1874年)に勃 ……

河野敏鎌が亡くなってから、129年と215日が経過しました。(47332日)