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桐野利秋(きりのとしあき)

薩摩藩士陸軍少将[日本]

(前名・中村半次郎、西南戦争で額を撃ち抜かれて戦死)

1877年 9月24日 死去戦死享年40歳

桐野利秋 - ウィキペディアより引用

桐野 利秋(きりの としあき、天保9年12月2日(1839年1月16日) - 明治10年(1877年)9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人。
諱は利秋、通称は半次郎、桐野に復姓後は信作(晋作、新作)。
初め中村 半次郎(なかむら はんじろう)と称した。
桐野利秋の書と伝えられる掛け軸など複数に、「鴨溟(瞑)」という雅号が記されている。
経歴[編集] 出自・城下士[編集] 天保9年(1838年)12月2日、鹿児島郡鹿児島近在吉野村実方(現在の鹿児島県鹿児島市吉野町)で城下士の中村与右衛門(桐野兼秋)の第三子として生まれる。
5人兄姉弟妹で、上から兄・与左衛門邦秋、姉(夭折)、半次郎利秋、弟・山ノ内半左衛門種国(山ノ内家の養子となる。
西南戦争に従軍)、妹(島津斉彬に近侍していた伊東才蔵に嫁ぐ。
伊東才蔵も西南戦争で戦死)の順。
別府晋介は母方の従弟。
肝付兼行男爵とは姻戚関係にあり、兼行の実父・兼武は、利秋戦死後、残された家族を後見するとともに、伝記 を著した。
妻は帖佐小右衛門(鹿児島県鹿児島郡山之口馬場町士族)の次女、ヒサ。
戸籍上、利秋には実子がなく、死後、明治11年にヒサが家督を相続し、明治18年に実弟の長男・山ノ内栄熊が養子入籍している。
家系は坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)に起こると称し、安土桃山時代、島津義久の家老・平田増宗を暗殺した押川強兵衛の道案内をした桐野九郎左衛門尉の末裔という。
10歳頃、広敷座 ……

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桐野利秋が亡くなってから、146年と305日が経過しました。(53632日)