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長谷川時雨(はせがわしぐれ)

作家[日本]

1941年 8月22日 死去享年63歳

長谷川時雨 - ウィキペディアより引用

長谷川 時雨(はせがわ しぐれ、1879年〈明治12年〉10月1日 - 1941年〈昭和16年〉8月22日)は、明治から昭和期の劇作家、小説家。
雑誌や新聞を発行して、女性の地位向上の運動を率いた。
本名:長谷川 ヤス(康子)。
内縁の夫は三上於菟吉、末妹は画家・随筆家の長谷川春子。
生涯= 生い立ち= 東京府日本橋区通油町1丁目(現在の東京都中央区日本橋大伝馬町3丁目)に、深造・多喜の長女として生まれた。
深造は日本初の免許代言人(弁護士)の一人で、東京市会の有力者でもあった。
多喜は御家人の娘であった。
5歳から12歳まで、秋山源泉小学校で寺子屋式の代用小学校で教育を受け、かたわら、長唄、踊り、お花、お茶、当時流行の二弦琴などの女子の躾けを受け、祖母には芝居へ連れられた。
女に学問は不要という母に隠れて本を読み、14歳から行儀見習いに奉公した池田詮政侯爵家でも、夜分は読書に耽った。
17歳のとき肋膜炎を病んで家に戻り、佐佐木信綱の竹柏園に通って古典を学んだ。
1897年(明治30年)、18歳の時に父の命で成金の鉄問屋、水橋家の次男・信蔵と結婚。
遊び人で実家から勘当された身だったが、当時岩手の釜石にあった日本で唯一の製鉄所で3年ほど頑張れば勘当が解ける約束だったという。
ただ僻地に来たからといって遊び癖は抜けず、何かにつけて東京へ行っては中々帰ってこないので、釜石に独り残されたその間に勉強、習作し、1901年には短編『うづみ火』を ……

長谷川時雨が亡くなってから、83年と91日が経過しました。(30407日)