薄田研二(すすきだけんじ)
俳優[日本]
1972年 5月26日 死去急性肺炎享年75歳
薄田 研二(すすきだ けんじ、1898年9月14日 ‐ 1972年5月26日)は、日本の俳優。
本名:高山 徳右衛門(幼名:徳太郎)。
築地小劇場研究生からキャリアをスタートさせ、同劇場分裂後に新築地劇団の結成に参加、同劇団の中核的存在として活躍。
その後も苦楽座、劇団中芸、東京芸術座などの劇団を設立し、新劇運動の中心的指導者となった。
晩年は後進の教育にもあたっている。
戦中・戦後は映画にも多く出演しており、特に東映時代劇で欠かせない悪役俳優として知られた。
著書に自伝『暗転 わが演劇自伝』(東峰書院、1960年)など。
前妻は高山晴子(倉田百三の最初の妻)、後妻は女優の内田礼子。
息子は高山象三、娘は女優の薄田つま子。
来歴・人物=
1898年(明治31年)9月14日、福岡県早良郡西新町(現在の福岡市早良区)に造り酒屋・肥前屋の6人兄妹の長男として生まれる。
実家の肥前屋は「松の雪」という銘柄の酒を醸造しており、12歳で父母を亡くした薄田は肥前屋の当主となった。
幼名は徳太郎だが、祖父の名を継いで徳右衛門を名乗った。
幼時から博多仁和加の物真似を得意としていた。
1918年(大正7年)、友人の児島善三郎を介して結核療養中だった倉田百三の知遇を得、彼の寓宅に設立された新しき村福岡支部の会員となる。
1921年(大正10年)に画家を目指して上京、倉田の入院送別の余興で上演した『俊寛』で素人ながら主役を務め、好評を得た。
また、多 ……
薄田研二が亡くなってから、52年と160日が経過しました。(19153日)