木下惠介 氏(きのしたけいすけ)
映画監督、脚本家[日本]
1998年 12月30日 死去脳梗塞享年87歳
木下 惠介(きのした けいすけ、新字体:恵介、1912年12月5日 - 1998年12月30日)は、日本の映画監督・脚本家。
本名は同じ(旧名:正吉)。
監督としての映画の名前の表記は1960年代には「恵介」が混在している。
真面目で抒情的な作風で知られ、数多くの映画を制作した後、テレビ・ドラマにも進出した。
弟は作曲家の木下忠司、妹は脚本家の楠田芳子。
「木下学校」とも呼ばれる、助監督などで関わった多数の才能ある映画人を育成したことでも有名。
略歴=
1950年代初め
1912年(大正元年)12月5日、静岡県浜松市(現在の浜松市中央区)伝馬町で食料品店(漬物製造)の「尾張屋」を営む父・周吉、母・たまの8人兄弟の4男として生まれる。
周吉は一代で財を成した人物であった。
1919年(大正8年)、浜松尋常高等小学校(現:浜松市立元城小学校)に入学。
在学中にさかんに映画を見る。
その後浜松工業学校(現浜松工業高等学校)紡績科を卒業後、上京する。
1933年(昭和8年)、オリエンタル写真学校を経て、松竹蒲田撮影所現像部に入社。
その後撮影部に移り、撮影技師桑原昴の助手となる。
1936年(昭和11年)、新たに作られた松竹大船撮影所に移り、島津保次郎に引き抜かれて島津の助監督となり、島津の『浅草の灯』や吉村公三郎の『暖流』などを担当する。
1940年(昭和15年)10月に召集令状を受け取り、11月に名古屋の中部第13部隊輜重兵第3聯隊補充兵に入隊する。
中国各 ……
木下惠介さんが亡くなってから、25年と327日が経ちました。(9458日)