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望月優子(もちづきゆうこ)

女優[日本]

1977年 12月1日 死去享年61歳

望月優子 - ウィキペディアより引用

望月 優子(もちづき ゆうこ、本名:鈴木 美枝子、旧姓:里見、1917年1月28日 - 1977年12月1日)は、日本の女優、映画監督、政治家。
参議院議員(1期、日本社会党)。
来歴= 神奈川県横浜市出身。
妹は女優の中村雅子。
加藤嘉は義弟(妹の夫)。
1930年、東京市立忍岡高等女学校(現東京都立忍岡高等学校)を中退。
望月美恵子の芸名でムーランルージュ新宿座などで初舞台を踏む。
1942年、川端康成の媒酌で鈴木重雄と結婚。
戦後は劇団民藝に参加。
1950年に松竹と契約。
1958年『米』での演技が評価されてブルーリボン主演女優賞受賞。
三益愛子と並んで「母物映画女優」と呼ばれた。
1959年(昭和34年)8月2日、モスクワ国際映画祭に出席のため、ソビエト連邦を訪問。
同年8月27日、日本に帰国した。
当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重なモスクワ訪問となった。
同年12月14日、在日朝鮮人の帰還事業における最初の帰国船が新潟港を出港した。
1960年(昭和35年)、望月は、北朝鮮への帰国事業を題材に、朝鮮総連の支援を得て、教育映画『海を渡る友情』(東映)を監督した。
出演は加藤嘉、水戸光子、西村晃。
以後、『おなじ太陽の下で』(1962年)、そして全日本自由労働組合製作の『ここに生きる』(同年)と、計3本の映画を監督した。
1960年(昭和35年)10月20日に日比谷公会堂で行われた浅沼稲次郎の日本社会党葬で、草野心平の追悼詩を朗読した。
1967年(昭和42 ……

望月優子が亡くなってから、47年と167日が経過しました。(17334日)

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