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木村恵吾 氏(きむらけいご)

映画監督脚本家[日本]

1986年 1月20日 死去胃がん享年84歳

木村恵吾 - ウィキペディアより引用

木村 恵吾(きむら けいご、1903年6月19日 - 1986年1月20日)は、日本の映画監督、脚本家である。
サイレント映画の時代に脚本家、ついで監督としてデビューした。
1940年(昭和15年)にオペレッタ映画『狸御殿』を創出、『オペレッタ狸御殿』(2005年)につながる源流をつくった。
人物・来歴[編集] 1903年(明治36年)6月19日、静岡県三島市に生まれる。
早稲田大学附属早稲田高等学院(現在の早稲田大学高等学院)の2年次終了で日活大将軍撮影所に入社、1926年(大正15年)、オリジナル脚本が採用され、伊奈精一監督、根岸東一郎主演のサイレント映画『神田の下宿』で脚本家としてデビューした。
同年、オリジナル脚本第2作『都の西北』が映画化され、伊奈監督、中野英治主演で製作されたが、これには俳優時代ののちの映画監督渡辺邦男が出演している。
同撮影所は1929年(昭和4年)に太秦に移転したが、同年までに11本の脚本が採用されて映画化された。
1930年(昭和5年)、帝国キネマ演芸に移籍、川口松太郎の原作を自ら脚色した中野英治主演の『若き血に燃ゆる者』で監督としてデビューした。
同社で4作を監督し、オリジナル脚本を1作、松本英一監督に提供して、翌年1931年(昭和6年)に同社が新興キネマに改組されてからは、新興キネマ京都太秦撮影所(現在の東映京都撮影所)で活動した。
1940年(昭和15年)、同社の紀元二千六百年奉祝のための大作『国姓爺合戦』の監督に抜擢され、八尋 ……

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木村恵吾さんが亡くなってから、38年と188日が経ちました。(14068日)