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浅沼稲次郎(あさぬまいなじろう)

政治家、日本社会党書記長[日本]

1960年 10月12日 死去刺殺享年61歳

浅沼稲次郎 - ウィキペディアより引用

浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1898年(明治31年)12月27日 - 1960年(昭和35年)10月12日)は、日本の政治家。
東京府神着村(現在の東京都三宅村)出身。
日本社会党書記長、委員長を歴任。
巨体と大きな声で全国を精力的に遊説する姿から、「演説百姓」「人間機関車」の異名を取り、また「ヌマさん」の愛称で親しまれた。
1960年10月12日(水曜日)、日比谷公会堂で行なわれた3党首立会演説会の演説中に、右翼活動家の山口二矢(17歳)に刺され死亡した(浅沼稲次郎暗殺事件)。
経歴= 生い立ち= 神着村(三宅島)の名主の庶子として生まれる。
父が東京府南葛飾郡砂村(現東京都江東区)で酪農業をはじめ、稲次郎の母とは別の女性と再婚したのを期に実子として認知され引き取られた。
その後東京府立三中(現都立両国高等学校)に入学。
医者になれという父の勧めを蹴り、大正7年(1918年)に早稲田大学予科に入学する。
このことから父とはしばらく絶縁状態となり、稲次郎は友人の経営する文房具会社に参加して万年筆製作で糊口を凌いだという。
早大在学中には雄弁会と恵まれた体格を活かして相撲部に在籍した。
さらに漕艇部にも所属してレースにも出場し、大隈重信に体格の良さを褒められたと語っている。
大正8年(1919年)秋、大正デモクラシー期における代表的な学生運動団体である建設者同盟の結成に加わることにより社会主義運動に飛び込み ……

浅沼稲次郎が亡くなってから、64年と21日が経過しました。(23397日)

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