木下勝俊(きのしたかつとし)
戦国武将、歌人[日本]
(慶安2年6月15日没)
1649年 7月24日 死去享年80歳
木下 勝俊(きのした かつとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
後半生は隠士として歌を詠み、歌人としては木下長嘯子(きのした ちょうしょうし)の名で知られる。
初め龍野城主で、次いで若狭小浜城(後瀬山城)主で、官位が従四位下式部大夫、左近衛権少将であったので、通称を、式部大輔、若狭少将という。
龍野城主時代には龍野侍従ともいった。
一時期はキリシタンでもあって洗礼名は「ペテロ」(ペドロ)と伝わる。
若き日より豊臣家の大名として従軍するなかでも、細川幽斎に歌を学び、秀吉の文事に参加し、自ら歌会も催した。
関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将であったが、敵前逃亡して京都に身を隠す。
これは後に至るも非難されるが鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果との説もある。
役後に改易、叔母の庇護をうける。
次いで父家定の備中足守藩を継いで第2代藩主となったが、異母弟利房と遺領を争って公儀の沙汰で所領没収とされた。
以後、京の東山に隠棲した。
長嘯(ちょうしょう)または長嘯子(ちょうしょうし)、歌集にも用いられた挙白(きょはく)の他、天哉爺(てんかおう)など様々の号を用いる。
歌人としては地下派の雄として自由で大胆、古語も俗語も無雑作に扱い誹謗もあったが新しい風を吹かせ、幽斎門下では松永貞徳と並び称される。
貞門だが松尾芭蕉は長嘯子への憧れがあり、国学の学 ……
木下勝俊が亡くなってから、375年と117日が経過しました。(137086日)