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住吉如慶(すみよしじょけい)

絵師[日本]

(寛文10年6月2日没)

1670年 7月18日 死去享年72歳

住吉如慶 - ウィキペディアより引用

住吉 如慶(すみよし じょけい、慶長4年(1599年) - 寛文10年6月2日(1670年7月18日))は、江戸時代前期の大和絵の絵師。
江戸幕府の御用絵師を務めた住吉派の祖。
泉州・堺出身。
幼名は千夜叉丸、長十郎(長重麿)。
諱は広通、広道、あるいは忠俊。
通称は内記。
旧姓は土佐。
伝記= 土佐光吉の子とも門弟とも言われるが、後者のほうが可能性が高い。
光吉ついで土佐光則に学び、土佐光陳(みつひさ)と称した。
光則が上洛するのに先んじて、光陳は京都に出ていて、内記と改称。
寛永2年(1625年)、南海坊天海の推挙で、「東照宮縁起絵巻」を制作するため、名目上光則の弟分として関東に下る。
如慶は、日光・和歌山・岡山・川越喜多院の各東照宮に奉納された都合4点の「東照宮縁起絵巻」を制作しており(うち和歌山・岡山本が現存)、こうした画事を通じて幕府との関係が深まり、後の御用絵師登用に繋がったと見られる。
しかし、この頃はまだ主として京都で活躍したらしく、承応3年(1654年)からの内裏造営に伴う障壁画制作では、狩野探幽ら狩野派の絵師たち、土佐光起、海北友雪らと共に参加している。
寛文元年(1661年)、妙法院門跡・尭然法親王のもとで剃髪、如慶と号し、法橋さらに法眼に叙せられる。
翌年、後西天皇の勅命により苗字を住吉と改め、住吉家を立てることになった。
これは、摂州住吉絵所が鎌倉時代中期の住吉慶恩(慶忍)一代で絶えたのを、 ……

住吉如慶が亡くなってから、354年と123日が経過しました。(129422日)

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