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北大路魯山人(きたおおじろさんじん)

篆刻家、画家陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家[日本]

1959年 12月21日 死去肝硬変享年77歳

北大路魯山人 - ウィキペディアより引用

北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん、本名:北大路 房次郎〈きたおおじ ふさじろう〉、1883年〈明治16年〉3月23日 - 1959年〈昭和34年〉12月21日)は、日本の芸術家。
晩年まで、篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
略歴= 1883年(明治16年)、上賀茂神社の社家である北大路清操(きよあや / せいそう)と、同じく社家の西池家出身である登女(とめ)の次男として生まれる。
士族の家柄ながら生活は貧しく、版籍奉還2年後の1871年(明治4年)に俸禄制と世襲制が廃止されたこともあって混乱期にあった。
父・清操は東京に職を求めたり京都に戻ったりという生活をしていたが、房次郎(魯山人)が生まれる4か月前に自殺する。
母・登女は滋賀県滋賀郡坂本村(現:大津市坂本)の農家に房次郎を預けて失踪する。
しかし家では房次郎は放置され、預けた1週間後にこの農家を紹介した巡査の妻が再び連れて帰る。
出生から5か月後の1883年(明治16年)9月6日、巡査の服部家の戸籍に入り服部房次郎となる。
しかし、その2か月前の7月2日に服部巡査は行方不明になり、同年秋に巡査の妻も病死したため、この2人の養子の夫婦が義理の弟である幼い房次郎の面倒を見ることになる[要ページ番号]。
3歳の春、上賀茂神社の東側に拡がる神宮寺山を養姉に連れられて散歩をしている時、房次郎に生涯にわたる記憶となる「真っ赤な躑躅(つつじ)の咲き競う ……

北大路魯山人が亡くなってから、64年と352日が経過しました。(23728日)