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板倉重宗(いたくらむねしげ)

下総関宿藩初代藩主、京都所司代[日本]

(明暦2年12月1日没)

1657年 1月15日 死去享年72歳

板倉重宗 - ウィキペディアより引用

板倉 重宗(いたくら しげむね)は、江戸時代前期の譜代大名で下総関宿藩の初代藩主。
京都所司代。
板倉家宗家2代。
父は板倉勝重、母は粟生永勝の娘。
弟に重昌、重大がいる。
生涯= 京都所司代就任= 板倉勝重の長男として駿府で生まれる。
永井尚政や井上正就と共に徳川秀忠に近侍した(同時期の小姓組番頭は他に水野忠元、大久保教隆、成瀬正武、日下部正冬)。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従い出陣。
慶長10年(1605年)の徳川家康・秀忠父子の上洛に従い、秀忠の江戸幕府2代将軍就任に伴って重宗も従五位下・周防守に叙任された。
大坂の陣では冬・夏の両陣に出陣し、小姓組番頭の職にあって家康・秀忠の間で連絡役を務めた。
戦後、書院番頭に任命されて6000石を与えられた。
元和6年(1620年)に父の推挙により京都所司代となり、2万7000石を与えられた。
前年の元和5年(1619年)に秀忠の娘和子(後の東福門院)が後水尾天皇の女御として入内する話があったが、典侍・四辻与津子の皇女出産に絡んだ入内延期および秀忠の公家処罰(およつ御寮人事件)で天皇が態度を硬化させると、父や藤堂高虎と共に周旋に動き、入内は元和6年6月に決定し処罰された公家も赦免、和子の入内に供奉した。
天皇と幕府の間を交渉= 元和9年(1623年)11月19日に従四位下に昇位し、12月23日に侍従に任官される。
前後して、同年9月に天皇の叔父の八条宮智仁親王が嫡男の若宮(後 ……

板倉重宗が亡くなってから、367年と307日が経過しました。(134354日)

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