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金地院崇伝(こんちいんすうでん)

臨済宗の[日本]

(「黒衣の宰相」、寛永10年1月20日入滅)

1633年 2月28日 死去享年65歳

金地院崇伝 - ウィキペディアより引用

以心 崇伝(いしん すうでん、永禄12年〈1569年〉- 寛永10年1月20日〈1633年2月28日〉)は、安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧。
字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれる。
本光国師の称は、寛永3年(1626年)に後水尾天皇の師となり授けられたもの。
俗姓は一色氏。
徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、江戸時代の礎を作ったとされる。
その権勢から「黒衣の宰相」の異名を取った。
起草した武家諸法度は老中以下諸大名の前で崇伝により布告された。
徳川家光、徳川忠長の諱は崇伝により名付けられた。
生涯= 永禄12年(1569年)、室町幕府幕臣の一色秀勝の次男として京都に生まれた。
名門の出身で足利将軍家の側近として将来を約束されていたが、元亀4年(1573年)足利義昭が織田信長に追放されて室町幕府が滅亡したため、官寺中最も格式の高い南禅寺にて出家し266世・玄圃霊三の弟子となる。
鷹峯金地院の靖叔徳林に嗣法、更に醍醐寺三宝院で学ぶ。
文禄2年(1593年)10月に24歳で摂津福厳寺、11月には相模禅興寺の住職。
慶長10年(1605年)37歳で鎌倉五山第一位の建長寺住職となり3月には臨済宗五山派の最高位・南禅寺270世住職となり官寺の頂点に立ち、後陽成天皇から紫衣を賜る。
慶長13年(1608年)、相国寺の西笑承兌の推薦により徳川家康に招かれ駿府に赴き幕政に参画する ……

金地院崇伝が亡くなってから、391年と263日が経過しました。(143076日)

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