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丸木俊 氏(まるきとし)

画家[日本]

2000年 1月13日 死去享年89歳

丸木俊 - ウィキペディアより引用

丸木 俊(まるき とし、1912年2月11日 - 2000年1月13日)は、日本の洋画家。
出生名・赤松俊。
人物・経歴= 丸木位里 / 俊の夫で同じく画家。
「原爆の図」の共同制作者であった。
丸木スマ / 俊の義母(位里の母)。
戦後、画家の活動を始めたが非業の死を遂げた。
北海道雨竜郡秩父別村の善性寺に生まれる。
丸木位里との結婚後も1956年までは赤松俊子(あかまつ としこ)の名を使用。
位里の母・丸木スマの死後、「女絵かきの名を継ぐため」に丸木姓を名乗るようになり、1957年から1964年頃まで丸木俊子としていた時期もあったが、その後は丸木俊(戸籍名は俊)を名乗る。
北海道庁立旭川高等女学校、女子美術専門学校師範科西洋画部卒。
1933年から1937年まで市川尋常高等小学校の代用教員を務め、市川市で間借り生活を送る。
1937年から1938年にかけて、市川尋常高等小学校の同僚であった平野婦美子の仲介で、一等通訳官・油橋重遠の子の家庭教師としてモスクワへ赴任。
帰国後の春から8月まで市川尋常高等小学校の代用教員を務めたのち、東京・豊島区長崎のアトリエ村に住む。
1939年、第26回二科展に初入選。
1940年に半年間、当時日本の統治下にあった南洋群島のパラオ諸島、ヤップ島を旅する。
1941年にはソ連公使・西春彦の子の家庭教師として半年間モスクワへ赴任。
1941年7月、丸木位里と結婚。
1942年から1946年まで美術文化協会展に出品。
1945年はじめに埼玉県浦和市に ……

丸木俊さんが亡くなってから、24年と313日が経ちました。(9079日)