三岸節子 氏(みぎしせつこ)
洋画家[日本]
1999年 4月18日 死去急性循環不全享年95歳

三岸 節子(みぎし せつこ、1905年1月3日 - 1999年4月18日)は、日本の女性洋画家で、新制作協会会員。
生涯=
1960年頃
愛知県中島郡起町(現・一宮市小信中島)の織物工場を営む裕福な家の十人兄弟の6番目(4女)に生まれた[1]。
父は吉田永三郎、母は菊[2]。
母の菊は、安政の大獄で死罪となった水戸藩士・鵜飼吉左衛門(幼名は菊三郎)の一族であった(節子生家近くの頓聴寺住職も鵜飼家の人物であった)。
しかし、吉田家は不況のあおりで倒産した。
先天性股関節脱臼(現・発育性股関節形成不全)を患っており[3]、両親に抑圧されて育った節子も[1]、この大きなショックから当時興味を抱いていた絵の道へと向かっていく。
戦前・戦後の画壇における女性画家の地位向上に努め、その生涯を通じてたくましい精神力で生命を賛歌する作品を描き続けた。
名古屋市の淑徳高等女学校(現・愛知淑徳高等学校)卒業後、日本画をすすめる両親を説得したうえで洋画を学ぶために上京し[4]、本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事する[5]。
女子美術学校(現・女子美術大学)の2年次に編入学し[5]、首席で卒業した[6]。
1924年に三岸好太郎と結婚し[6]、1930年に長男黄太郎を出産するも、1934年に夫と死別した[6]。
生活は苦しかったが、太平洋戦争中も疎開せず、明るい色調の静物画を多数描いた[7]。
1946年、女流画家協会を創立する。
1948年から菅野圭介と事実上の婚約関係にあったが、1953年に破局した。
19 ……
三岸節子さんが亡くなってから、26年と73日が経ちました。(9570日)