前野長康(まえのながやす)
戦国武将[日本]
(文禄4年8月19日没)
1595年 9月22日 死去切腹
前野 長康(まえの ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
織田信長に仕えた後豊臣氏の宿老となる。
播磨国三木城主ののち但馬国出石城および有子山城主となる。
蜂須賀正勝の義兄弟。
官位は但馬守。
坪内光景という別名でも知られる。
名称について=
別名に坪内 光景。
通称は、小右衛門のち将右衛門。
騎乗の才能を認められて織田信長から駒右衛門という名を賜った。
元は尾張国河内松倉城の領主である坪内氏の当主・坪内勝定の嫡男であるとも言われているが、二人は僅か12歳差であり、実の親子とは考えにくい。
その出自は『武功夜話』では勝定の娘婿で前野宗康の次男としている。
定説や『寛政重修諸家譜』には勝定の嫡男であり、実名は坪内光景であるとされる。
なお、松倉城は戦国時代は尾張国葉栗郡にあったが、安土桃山時代の木曽川の洪水の後の境界変更により、美濃国羽栗郡に変わる。
生涯=
出自と前歴=
前野村八屋敷の一角とされる現存の前野家屋敷跡
大永8年(1528年)、岩倉織田氏の軍奉行である前野右京介宗康の次男に生まれる。
生年は天文7年(1538年)ともされるが信憑性は低い。
前野村八屋敷の小次郎丸に住したとされる。
幼名は喜太郎の後に小太郎と改める。
元服して通称を小右衛門と名乗る。
小右衛門の小の字は前野家当主が代々通称に使用してきた通字である。
越中国の牢人である遊佐河内守に兵法を学び、 ……
前野長康が亡くなってから、429年と58日が経過しました。(156750日)