桂久武(かつらひさたけ)
薩摩藩士[日本]
(西南戦争に参加し城山で流れ弾に当たり戦死)
1877年 9月24日 死去戦死享年48歳
桂 久武(かつら ひさたけ)は、幕末の薩摩藩士、政治家。
島津氏分家・日置島津家当主の島津久風の五男。
長兄は、第29代藩主・島津忠義の主席家老島津久徴(下総、左衛門)、次兄は、お由羅騒動で犠牲となった赤山靭負。
人物=
安政2年(1855年)に同じ島津氏分家である一所持・桂家(知行は800石)の薩摩藩士・桂久徴の養子となる。
その後、造士館演武係方など要職を務めるが、兄島津久徴が島津斉彬派家老であったために罷免され、それに伴い斉彬の死の直後の文久元年(1861年)には大島守衛方・銅鉱山方に左遷される。
このころに流刑中であった西郷隆盛と親交を結ぶ。
文久三年(1863年)には藩庁に復帰しており、当時、保守派(佐幕派)と誠忠派(尊皇派,精忠組と連携)に家臣が分裂していた都城領内において、幕府の取締を危惧した保守派の家老北郷資雄らが、誠忠派の志士15名を謹慎、遠島などの厳しい処分に処した事件(誠忠派崩れ、または都城崩れ)で、誠忠派の島津宗家に処分の不当性を訴えたのに対して、久武は詮議の結果、処分を取り消すなどしている。
元治元年(1864年)、大目付となり小松帯刀らと共に藩論の統一に貢献、慶応元年(1865年)には家老に昇格、上洛して桂小五郎を厚遇し、薩長同盟の提携に尽力する。
以来西郷から厚い信頼を寄せられ、武力討幕論を支持。
明治新政府では明治3年(1870年)、西郷とともに鹿児島藩権大参事となり藩政トップを勤めた。
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桂久武が亡くなってから、147年と57日が経過しました。(53749日)