島津斉興(しまづなりおき)
薩摩藩主[日本]
(祖父・重豪の政策により傾いた藩財政を建て直す為、調所笑左衛門を登用する、安政6年9月12日没)
1859年 10月7日 死去享年69歳
島津 斉興(しまづ なりおき)は、江戸時代後期の外様大名。
島津氏27代当主。
薩摩藩10代藩主。
生涯=
家督相続=
寛政3年(1791年)11月6日、9代藩主・島津斉宣の長男として江戸で生まれた。
生母の実家・鈴木家は浪人であったため、斉興の出生後に島津家と鈴木家との間で諍いが起きている。
文化元年(1804年)10月に元服、11代将軍・徳川家斉より偏諱を賜って、初名の忠温(ただよし/ただはる/ただあつ)から斉興に改名。
従四位下、侍従兼豊後守に叙任。
文化6年(1809年)6月、近思録崩れの責任を取る形で父・斉宣が祖父・重豪によって強制隠居させられたため、家督を継いで10代藩主となった。
しかし藩主になったとはいえ、藩政改革などの実権は重豪に握られていた。
天保4年(1833年)、重豪が89歳で大往生を遂げるとようやく藩政の実権を握り、重豪の代からの藩政改革の重鎮・調所広郷を重用して、財政改革を主とした薩摩藩の天保改革に取り組んだ。
藩政改革では調所主導の元、借金の250年分割支払いや清との密貿易、砂糖の専売、偽金作りなどが大いに効果を現わし、薩摩藩の財政は一気に回復した。
しかし嘉永元年(1848年)、幕府から密貿易の件で咎められ、責任者の調所は12月に急死した。
斉興に責任を及ばさないために1人で罪を被り、服毒自殺したとされる。
また対外危機の高まりに際しては、洋式砲術の採用を決め、藩士を長崎に派遣して学ばせたり、鋳製方を設置 ……
島津斉興が亡くなってから、165年と45日が経過しました。(60311日)