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山本礼三郎(やまもとれいざぶろう)

俳優[日本]

1964年 9月11日 死去享年63歳

山本礼三郎 - ウィキペディアより引用

山本 禮三郎(-礼三郎、やまもと れいざぶろう、1902年9月15日 - 1964年9月11日)は、日本の俳優である。
本名は山本 博吉(やまもと ひろよし)、初期芸名は小沢 美羅二(おざわ みらじ)、東亜キネマ時代に一時期市川 壽三郎(-寿三郎、いちかわ じゅさぶろう)を名乗った。
マキノ大量退社事件で退社し、山本礼三郎プロダクションを設立した時期がある。
来歴= 1902年(明治35年)9月15日、東京府東京市芝区白金志田町(現在の東京都港区白金1丁目 - 高輪1丁目)に「山本博吉」として生まれる。
父は明治時代の洋画家・山本芳翠で、博吉は次男である。
満4歳のときに父が死去した。
1918年(大正7年)、旧制中学校を中途退学する。
同年4月、満15歳のときに、獏与太平こと古海卓二、西本政春、河合澄子らの結成した「日本バンドマン一座」に参加、「小沢美羅二」を名乗り、浅草公園六区での創作オペラを経験する。
のちに古海の妻紅沢葉子が横浜市山下町(現在の同市中区元町一丁目)の大正活動映画(大活)に入社すると、古海たちとともに横浜に移る。
満19歳を迎える1921年(大正10年)、大活が製作、栗原トーマス・中尾鉄郎が共同監督したサイレント映画『紅草紙』に出演、映画界にデビューした。
1927年(昭和2年)、25歳のときにマキノ・プロダクション御室撮影所に入社、「山本禮三郎」の名で、同年、曽根純三監督の『鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子』で本格デビュー、マキノ省三こと牧野 ……

山本礼三郎が亡くなってから、60年と94日が経過しました。(22009日)