芸能人・経営者のおくやみ情報

市川百々之助(いちかわもものすけ)

歌舞伎役者俳優[日本]

1978年 1月15日 死去享年73歳

市川百々之助 - ウィキペディアより引用

市川 百々之助(いちかわ もものすけ、1906年(明治39年)5月8日 - 1978年(昭和53年)1月15日)は、歌舞伎役者、映画俳優、映画監督。
サイレント映画の時代に「ももちゃん」の愛称で親しまれ、全盛期には阪東妻三郎と人気を二分する剣劇俳優であった。
戦後は芸名を百々木 直(ももき なお)と名乗った。
本名は上田 直正(うえだ なおまさ)。
来歴= 広島県広島市に生まれる。
1911年(明治45年)、『近江源氏戦陣館』の小四郎で初舞台を踏む。
12歳のとき、市川中車の門下となりちんこ芝居(小青年歌舞伎)の一座を組織して各地を巡業、葉村家一派、中村扇雀一座などにも加入出演した。
1922年(大正11年)9月、17歳のときに、帝国キネマ演芸(帝キネ)小坂撮影所へ入社、同年、中川紫郎監督の『異端者の恋』や『大江戸の武士』に出演し、映画俳優としてデビュー。
このあたりから凄まじく人気が上昇、白塗りのメーキャップに派手な殺陣、前髪立ちの小姓に扮し美男子ぶりを看板にするチャンバラ劇を演じて大正末期には一番の人気スターとなる。
1925年(大正14年)の小阪撮影所の閉鎖・全員解雇で解雇され、同年4月の帝キネの内紛による芦屋撮影所の独立によるアシヤ映画製作所設立に参加、長尾史録監督の『長兵衛売出す』前後篇などに主演した。
同年中に内紛は収まり、無事、芦屋撮影所に復帰した。
1927年(昭和2年)、市川百々之助プロダクション(百々プロ)を設立、森本登良 ……

市川百々之助が亡くなってから、46年と310日が経過しました。(17112日)

推定関連画像