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諸井春畦(もろいしゅんけい)

書家[日本]

1919年 5月9日 死去享年54歳

諸井 春畦(もろい しゅんけい、1866年3月30日(慶応2年2月14日) - 1919年(大正8年)5月9日)は、明治期から大正期にかけての実業家、書家。
諱は直行、字は習郷、通称は時三郎。
春畦は号である。
生い立ち= 武蔵国児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)の諸井泉衛(郵便諸井)の三男として生まれる。
兄諸井恒平は秩父セメント会社の創設者であり、弟諸井四郎は東亜製粉会社の創設者、その弟の六郎は陸奥条約改正に尽力した外交官。
いわゆる、日本の近代化に深く貢献した東諸井家の一族である(そのため、渋沢栄一とは親類関係に当たる)。
養子に柳田誠二郎(のちに日本航空の社長となる)。
略歴= 上京して経済学を修め、日本初のビルブローカー業(コール取引、すなわち銀行間決済資金融資業務)を始めた。
そのため、日本ビルブローカー業の創始者とされる。
書の大家である西川春洞に学び、自身も書の大家となった。
春畦(時三郎)の妻であるクラも西川春洞の門下生であり、号を華畦、夫婦共に書家であり、共に春洞門七福神の1人であった。
1904年(明治37年)、豊道春海などと共に謙慎堂同窓会を結成。
1906年(明治39年)頃、上京して来た誠二郎を養子として受け入れ、1911年(明治44年)には明治書道会を結成し、その会長となり、著書に『書法三角論』、『書家宝典』などがある。
そのわずか8年後の1919年(大正8年)に、流行性感冒(スペインかぜ)のため東京日本橋濱 ……

諸井春畦が亡くなってから、105年と197日が経過しました。(38548日)

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