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沼田紅緑(ぬまたこうろく)

映画監督脚本家俳優[日本]

1927年 3月30日 死去レプトスピラ症享年37歳

沼田紅緑 - ウィキペディアより引用

沼田 紅緑(ぬまた こうろく、1891年4月9日 - 1927年3月30日)は、日本の映画監督、脚本家、元俳優である。
俳優時代の芸名は片岡 定丸(かたおか さだまる)、本名沼田 定次郎(ぬまた さだじろう)。
牧野省三に師事して俳優から映画監督に転向し、牧野の日活からの独立以降、牧野と行動をともにし片腕として信頼された。
阪東妻三郎の第1回主演作品『鮮血の手型』、月形龍之介の第1回主演作品『刃光』、市川右太衛門の映画デビュー作・第1回主演作品『黒髪地獄』を監督し、若き無名俳優であったそれぞれをスターダムに押し上げることに貢献したことで知られる。
『討たるゝ者』では妻三郎の人気を不動のものにし、右太衛門は自らの演技の基礎を築いた沼田を終生の師と仰いだ。
人物・来歴= 1891年(明治24年)4月9日(木曜日)、京都府京都市上京区松屋町通出水東入ル東天秤町に生まれる。
ただし『日本映画年鑑 大正十三・四年』には「明治廿五年四月九日」(1892年4月9日)と記されている。
尋常小学校を1902年(明治35年)に卒業したのが最終学歴である。
卒業後は家業を手伝っていたが、旧劇(歌舞伎)の俳優になる。
岸松雄によれば、沼田は片岡市之正に入門して市之正一座に所属、当時から牧野省三の経営する千本座の舞台に上がっていたという。
このころの芸名は片岡 定丸であり、満18歳になる1909年(明治42年)、横田商会の映画に出演、映画界にデビューしている。
具体的な ……

沼田紅緑が亡くなってから、97年と208日が経過しました。(35637日)