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橋口五葉(はしぐちごよう)

装幀作家、新版画作家[日本]

1921年 2月24日 死去脳膜炎享年41歳

橋口五葉 - ウィキペディアより引用

橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年(明治14年)12月21日 - 1921年(大正10年)2月24日)は、明治末から大正期にかけて文学書の装幀作家、浮世絵研究者として活躍したが、最晩年、新版画作家として新境地を開こうとした矢先に急死した。
アール・ヌーヴォー調の装幀本、「大正の歌麿」と形容された美人画を残している。
人物= かつて薩摩藩藩医で漢方医を勤めていた士族橋口兼満の三男として、鹿児島県鹿児島市樋之口町(現在の鹿児島市立甲東中学校に辺り、正門脇には石碑が立っている)に生まれた。
本名・清。
画号の五葉は、鹿児島の自宅にあり地域のランドマークになっていた、樹齢300年の五葉松にちなんだもの。
鹿児島県尋常中学校の在籍を経て、鹿児島県中学造士館を卒業。
少年時代は狩野派の絵を学んだが、1899年(明治32年)、数え19歳の時、画家を志して兄たちを頼り上京し、橋本雅邦に学ぶ。
翌1900年(明治33年)第8回絵画共進会に橋口五葉の名で日本画3点を出品(現在全て所在不明)するが、遠縁の黒田清輝の勧めで東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科予備課程甲種に入学、翌年本科に入学。
同学年選科に和田三造、二年選科に青木繁、熊谷守一、橋本雅助らがいた。
また、同郷の山下兼秀も東京美術学校西洋画科の同級。
在学中から展覧会へ出品、挿絵などで活躍しており、1905年(明治38年)に東京美術学校を首席で卒業した。
「此美人」石版画 雑誌『ホトトギス ……

橋口五葉が亡くなってから、103年と270日が経過しました。(37891日)

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