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熊谷守一(くまがいもりかず)

画家[日本]

1977年 8月1日 死去肺炎享年98歳

熊谷守一 - ウィキペディアより引用

熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月2日 - 1977年〈昭和52年〉8月1日)は、日本の画家。
日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。
しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。
富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。
勲三等(辞退)、文化勲章(辞退)。
経歴= 1880年(明治13年)4月2日、機械紡績を営む事業家で地主の父熊谷孫六郎と母タイの三男(7人兄弟の末っ子)として岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)に生まれた。
子供時代から絵を好んだ。
父親の孫六郎は学も財もない中から製糸業で成功し、岐阜県会議員となり、1885年(明治18年)には同議長を務め、人口不足のため市制が布されなかった岐阜の将来のため有力者に働きかけて市制実施運動を興し、近隣町村を合併して人口を増やし、私財を投じるなどして市制を実現し、1889年に初代岐阜市長に就任、1892年には衆議院議員に選出され、岐阜の名士となった人物。
製紙工場のほか春牛社牧牛場などを経営する孫六郎は政治や商売に忙しく、守一が3歳のときに祖母や母から引き離して他の兄弟とともに熊谷製糸工場に隣接する岐阜市内の邸宅に住まわせ、妾の一人を「おかあさん」と呼ばせて養育させた。
同家には、孫六郎の二人の妾と大勢の異母兄弟が暮らしていた。
岐阜県尋常小学校に入学し、11歳 ……

熊谷守一が亡くなってから、47年と112日が経過しました。(17279日)