武野紹鴎(たけのじょうおう)
茶人[日本]
(弘治元年閏10月29日没)
(ユリウス暦) 1555年 12月12日 死去享年54歳
武野 紹鷗(たけの じょうおう、文亀2年(1502年) - 弘治元年閏10月29日(1555年12月12日))は、戦国時代の堺の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人。
正しくは紹鷗だが、一部の日本語環境では表示できないため、本項では「武野紹鴎」と表記する。
幼名は松菊丸。
通称は新五郎。
名乗は仲材。
子に同じく茶人の武野宗瓦がいる。
来歴=
文亀2年(1502年)、大和国吉野郡で生まれる。
紹鴎の末裔が所持している『武野家系譜』によれば、紹鴎は若狭武田氏の出身とされる。
武田仲清の孫で、父の名前は信久。
母は豪族中坊氏の娘である。
祖父・仲清の戦死後、父・信久は各地を放浪の後、「武田が下野した」という意味合いで武野に改姓した。
信久は諸国を放浪した後、三好氏の庇護を受け和泉国の堺の舳松村(現・堺市堺区協和町)に定住し、皮屋(かわやの屋号・皮革・武具に関する商い)を営むようになった。
父が皮革商(皮多)だったことから「賤民出身」とされる場合もある。
大永5年(1525年)、父の元を離れ、京都の室町通四条で暮らし始める。
その翌年の9月13日に連歌会に参加したとの記録が、大阪天満宮所蔵の連歌資料にある。
30歳になるまで連歌師をしていたとされる(『山上宗二記』)。
27歳の時(1528年)、当時の最高の文化人であった三条西実隆を訪ね、その後毎回のように立派な土産を持参し、古典や和歌についての教えを受けるようになる。
その過程は ……