加藤楸邨 氏(かとうしゅうそん)
俳人[日本]
1993年 7月3日 死去享年89歳
加藤 楸邨(かとう しゅうそん、1905年(明治38年)5月26日 - 1993年(平成5年)7月3日)は、日本の俳人。
本名は健雄(たけお)。
位階は従四位。
水原秋桜子に師事。
初期は『馬酔木』に拠ったが、苦学する中で同誌の叙情的な作風に飽き足らなくなり、人間の生活や自己の内面に深く根ざした作風を追求、石田波郷、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。
第二次世界大戦後は戦災や社会運動への参加などを経て幅の広い作風を展開、また主宰した『寒雷』では伝統派から前衛派まで多様な俳人を育てた。
生涯=
現在の東京都大田区北千束に生まれる。
父・健吉、母・千佳の長男。
当時、健吉は私設甲武鉄道の駅員で、東京転勤の命を受けた直後の出生であったため、出生届は前任地の山梨県大月市で出された。
翌年、鉄道国有法の成立に伴って甲武鉄道が国有化され、健吉も鉄道官吏となる。
以後は父の転勤に伴い、楸邨は少年時代を関東、東海、東北、北陸と転々として過ごした。
1921年、父の定年退職に伴い、母の郷里である石川県金沢市に転居、石川県立金沢第一中学校(現:石川県立金沢泉丘高等学校)へ転校。
この頃に石川啄木、斎藤茂吉などを愛読し、短歌を作る。
1923年に金沢一中を卒業、父の病臥によって生活が窮乏したため進学を諦め、石川県松任町立松任小学校(現:白山市立松任小学校)に代用教員として務める。
1925年、父の病死を期に母、弟妹と4人揃っ ……
加藤楸邨さんが亡くなってから、31年と141日が経ちました。(11464日)