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南部利剛(なんぶとしひさ)

陸奥盛岡藩主[日本]

1896年 10月30日 死去享年71歳

南部利剛 - ウィキペディアより引用

南部 利剛(なんぶ としひさ)は、江戸時代後期の大名、明治時代の華族。
位階は正三位。
陸奥国盛岡藩の第14代藩主だったが、慶応4年の戊辰の役において松平容保に党して政府に反逆した罪を以て、同年11月に蟄居・改易となる。
12月に息子の利恭に磐城国白石藩13万石が下賜されて家名再興が許された(さらに後に旧領盛岡へ再移封が許された)。
経歴= 第13代藩主・南部利済の3男として盛岡にて誕生。
七戸藩主・南部信誉の養嗣子となるが、病により本家へ戻る(『補遺参考諸家系図』)。
嘉永2年(1849年)9月26日、実兄である先代・利義の隠居より家督を相続した。
利義の隠居は、父・利済との対立のためであった。
同年10月15日、12代将軍・徳川家慶に御目見する。
同年12月16日、従四位下・美濃守に叙任する。
嘉永4年12月16日(1852年)、侍従に任官する。
文久元年12月16日(1862年)、左少将に任官する。
元治元年(1864年)4月18日、左近衛権中将に任官し盛岡中将とよばれた。
利剛の家督相続に対しては反対が根強く、嘉永6年(1853年)の第2次三閉伊一揆では利義の復帰および帰国が一揆側の要求の一つであった。
この要求は退けられ、その後も藩主は利剛のままであった。
安政元年(1854年)2月23日、幕府は利済に対し、江戸下屋敷での蟄居を命じる。
また利義に対し、藩政への介入を禁止している。
父が幕府の命により江戸で蟄居を命じられて以降に親政を開始したが、藩 ……

南部利剛が亡くなってから、128年と21日が経過しました。(46773日)