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小曽根乾堂(こそねけんどう)

商人、書家、文人画家[日本]

1885年 11月27日 死去享年59歳

小曽根乾堂 - ウィキペディアより引用

小曽根 乾堂 (こぞね けんどう、文政11年5月2日(1828年6月13日) - 明治18年(1885年)11月27日)は、江戸時代末期から明治時代の日本の事業家・書家・文人画家・篆刻家である。
明治政府の勅命により御璽・国璽を刻したことで知られる。
また、坂本龍馬のよき理解者であり、財政面を支えている。
幼名を六郎太、六朗。
諱を豊明、字を守辱、乾堂は号で室号を鎮鼎山房・浪平釣叟とした。
通称は栄。
長崎の人。
略伝= 小曽根乾堂書 シーボルト記念碑 小曽根家の遠祖は武田勝頼の家臣とされるが、家祖は江戸時代初期の平戸道喜である。
道喜は博多・平戸と移り、慶長年間に長崎本博多町に住み、古物商と外国貿易を生業とした。
出島の南蛮屋敷の建設、眼鏡橋の修復、瑞光山永昌寺の建立など様々な事業を行った。
この道喜の代に小曽根姓に変わった。
その後に家運が衰え、乾堂の祖父の代には貧窮に陥ったが、父・六左衛門は幕末頃、越前福井藩や肥前佐賀藩の御用商人となり、長崎屈指の豪商になった。
乾堂はこの父と母・中山氏の第一子として生まれた。
六左衛門は文芸にも造詣が深く、竹影と号しているが篠崎小竹に因んだと言われる。
古書画や古器物を愛玩し印癖があった。
乾堂に対して文芸の道に秀でることを望み、その教育に熱心だった。
乾堂はこれに応え、詩・書・画・篆刻に加え、音楽や陶芸にも造詣を得た。
書は春老谷・水野眉川に就いて学び、来舶清人 ……

小曽根乾堂が亡くなってから、138年と358日が経過しました。(50763日)

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