草場佩川(くさばはいせん)
漢詩人、儒学者[日本]
(慶応3年10月29日歿)
1867年 11月24日 死去享年81歳
草場 佩川(くさば はいせん、天明7年1月7日(1787年2月24日) – 慶応3年10月29日(1867年11月24日))は、江戸時代後期の儒学者。
佐賀藩多久領出身で、江戸で古賀精里に学び、佐賀藩藩校弘道館教授を務めた。
佩川(珮川)は号で、通称は磋助(さすけ)あるいは瑳助、名は韡(さかえ)、字は棣芳(ていほう)。
漢詩人として知られ、文人画にも優れた。
生涯=
天明7年(1787年)、肥前国多久町において、多久邑主(領主)である多久氏(佐賀藩重臣)の家臣、草場泰虎の次男として生まれる。
幼くして父を失ったが、母に教えられた和歌をそらんじるなど利発に育った。
8歳で多久の東原庠舎に入門。
15歳で東原庠舎の「句読師補」(師に代って素読を教える役目)を務めた。
文化元年(1804年)、18歳の時に邑主多久茂鄰(しげちか)の命によって佐賀藩校弘道館に入る。
この際、師の古賀穀堂(古賀精里の子)から「珮川」の号を与えられた(のちに「佩川」に改める)。
文化7年(1810年)、23歳の時に多久茂鄰に従って江戸に出、古賀精里に学んだ。
文化8年(1811年)には古賀精里に同行して対馬で朝鮮通信使の迎接にあたる。
朝鮮側の使節団と詩文を交わし、文名を挙げている。
この時の対馬出張の記録として、画も交えた『津島日記』がある。
文化8年(1811年)に帰郷、多久家の儒官となり東原庠舎に奉職。
天保5年(1834年)に佐賀藩弘道館教諭となった。
多久家・佐賀 ……
草場佩川が亡くなってから、157年と19日が経過しました。(57363日)