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藤原不比等(ふじわらのふひと)

公卿[日本]

(養老4年8月3日薨去)

(ユリウス暦) 0720年 9月9日 死去享年62歳

藤原不比等 - ウィキペディアより引用

藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿・政治家。
諡号は淡海公(たんかいこう)で近江国に封じられた。
正史以外で文忠公を記す史料もある。
草壁皇子と持統から元正に至る4代の天皇に仕え、大宝律令や日本書紀の編纂に関わり、文武から元正に至る3代の天皇の擁立に貢献した。
藤原鎌足の次男だが、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』では、天智天皇の落胤と記されている(#天智天皇の皇胤説)。
名を史(ふひと)と記す文献もある(#姓名について)。
生涯[編集] 中臣鎌足の次男として生まれたため、少年時代はまだ中臣氏を名乗っていた。
11歳の時、父・鎌足が死去。
鎌足が亡くなる直前に藤原氏に改姓した際に不比等がこれを継承している。
父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで14歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。
だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の初期には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は『日本書紀』の天武天皇2年(673年)5月条にある大舎人の登用制度によって出仕して下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。
不比等は、天武7、8年頃(678年 ……

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