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雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)

第21代天皇[日本]

(ユリウス暦) 0479年 9月8日 死去病気

雄略天皇 - ウィキペディアより引用

雄略天皇 (ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 479年?〈雄略天皇23年8月7日〉)は、日本の第21代天皇(在位:456年?〈安康天皇3年11月13日〉 - 479年?)。
『日本書紀』での名は大泊瀬幼武天皇。
考古学的に実在が実証されている古墳時代の天皇。
概略= 雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の第五皇子。
母は誉田天皇(応神天皇)の孫の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。
木梨軽皇子・穴穂天皇(安康天皇)の同母弟。
「記紀」によれば抜群の政治的才能と軍事的センスを持つ一方、残忍・冷酷な側面を持つある種の英雄的性格を有し、大伴氏、物部氏の二氏を自身の軍事的背景として、それまでの有力豪族との連合政権的な性格をもった大和政権の体制を専制的な体制へと転換したとされる。
養蚕の推奨、新羅への出兵、宋への遣使などの政策を積極的に実施した。
兄である穴穂天皇(安康天皇)の崩御後、帝位継承の邪魔となる兄弟や従兄たちを粛清した後即位した。
このとき誅殺した葛城円大臣の娘の葛城韓媛を妃とし白髪皇子(清寧天皇)を得た。
また吉備上道臣田狭から妻の吉備稚媛を奪い磐城皇子・星川稚宮皇子を得た。
皇后は大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の皇女である草香幡梭姫皇女で血縁上は叔母にあたり、間に子はない。
王位継承争いは他の時代にも見られたが王位継承のライバルとなる親族をこれほど多く次々と殺戮したことは前例にないと言われている。
即位後も ……