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北条長時(ほうじょうながとき)

武将、鎌倉幕府第6代執権[日本]

(文永元年8月21日没)

(ユリウス暦) 1264年 9月12日 死去享年35歳

北条長時 - ウィキペディアより引用

北条 長時(ほうじょう ながとき)は、鎌倉時代中期の武将。
北条氏の一門。
鎌倉幕府第6代執権(在職:康元元年11月22日〈1256年12月10日〉 - 文永元年〈1264年〉)である。
居所から赤橋 長時(あかはし ながとき)とも称される。
家系= 六波羅探題北方・連署を務めた北条重時の嫡男。
母は4代将軍藤原頼経に仕えた女房で正室の平基親(平親範の子)の娘(治部卿局)。
極楽寺流北条氏の嫡家・赤橋流の祖。
妹に葛西殿(第5代執権・北条時頼の継室・第8代執権・北条時宗の母)・弟に北条時茂(常盤流の祖)・第5代執権・北条時頼とは義兄弟、第8代執権・北条時宗の母方の伯父にあたる。
生涯= 重時嫡子= 重時の次男として生まれる。
重時が六波羅探題に任命されて上洛すると長時も随伴して上洛し、父の薫陶を受けながら京都で成長した。
嫡男であった異母兄の為時は嘉禎元年(1235年)10月に疱瘡にかかって重篤になり、精神的疾患を伴う後遺症も残ったため、重時により廃嫡された。
このため、長時が嫡男とされた。
執権以前= 宝治元年(1247年)3月27日、北条時盛の娘と結婚する。
6月の宝治合戦の後の7月、父・重時は第5代執権で娘婿の北条時頼を補佐すべく鎌倉に下向し(『葉黄記』)、父が鎌倉に下向した翌日の7月18日に後任として長時が六波羅探題北方に就任した。
『葉黄記』の同年6月6日条の記事として、同年5月に時頼の妹で将軍藤原頼嗣の正室であった檜皮姫が重態とな ……

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