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藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)

公家、鎌倉幕府第5代将軍[日本]

(康元元年9月25日没)

(ユリウス暦) 1256年 10月14日 死去赤斑瘡享年18歳

藤原 頼嗣(ふじわら の よりつぐ)は、鎌倉時代中期の公卿。
官位は従三位、左近衛中将。
鎌倉幕府5代将軍。
五摂家のひとつ、九条家の出身の摂家将軍。
九条頼嗣とも呼ばれる。
生涯= 鎌倉幕府4代将軍藤原頼経と藤原親能の娘・大宮殿の子として鎌倉で生まれる。
寛元2年(1244年)、当時の執権北条経時を烏帽子親として元服、父頼経の譲りによりわずか6歳で将軍に就任した。
翌寛元3年(1245年)、7歳で経時の妹である16歳の檜皮姫を正室として迎える(檜皮姫は宝治元年(1247年)5月死去)。
寛元4年(1246年)7月、宮騒動により父頼経が執権北条時頼によって京へ追放され、翌宝治元年(1247年)6月の宝治合戦で将軍家を擁する三浦氏らが滅亡した後も、頼嗣は将軍として鎌倉に留まった。
結果的に父と共に北条家とは対立関係となったが、時頼は頼嗣の教育に熱心であり、中原師連と清原教隆が学問を、小山長村、安達義景、三浦光盛、三浦盛時が武術を、それぞれ頼嗣に教えるように推挙している。
この他にも、御家人達の若い息子達から、好学の子らを、頼嗣の学友として近侍させようと考え、二階堂行方、武藤景頼にそうした人材を集めるよう手配している。
頼嗣も勉学への意欲は高く、建長2年(1250年)2月には帝王学の教科書である『帝範』を教材とした勉強会を頼嗣は行い、時頼や清原教隆が参加していることが『吾妻鏡』に書かれている。
この後、時頼は頼嗣に『貞観政要』を書 ……