小田富弥 氏(おだとみや)
挿絵画家[日本]
1990年 1月13日 死去心不全享年96歳
小田 富弥(おだ とみや、1895年(明治28年)7月5日 - 1990年(平成2年)1月13日)は、大正時代から昭和時代の挿絵画家、日本画家、木版画家。
来歴=
1895年、岡山県に生まれる。
本名は大西一太郎。
父は木版の版下を扱っており、母は油問屋の娘でハルといった。
小田は母方の姓で、一太郎は生後間もなく、博多に移り、そこで育ったが、1898年、3歳の時に一家揃って大阪の博労町に転居している。
1910年、15歳のころ、書家であった玉木愛石に書を学び、図案家の川崎巨泉のもとで修行した後、1912年、17歳で北野恒富に入門、白耀社において日本画の修業に励んだ。
1920年、野口政榮と結婚、後に5男7女を授かっている。
1924年6月10日から11月17日、『東京毎日新聞』夕刊に掲載された島川七石の「闇黒の女」の挿絵(全160回)を描いた。
これが初作とされる。
同年の夏、急病になった岩田専太郎の代役として直木三十五の紹介により、プラトン社発行の雑誌『苦楽』に挿絵を描いている。
このことが富弥の今後を大きく左右する転機となった。
1925年1月から翌1926年10月まで『苦楽』において国枝史郎の「神州纐纈城」の挿絵を描く。
また、1925年10月から翌1926年4月、『週刊朝日』に三上於菟吉の「敵討日月草紙」の挿絵(全27回)を描いた。
1926年3月22日から9月20日、『満州日日新聞』に大橋青波の「天魔の舞」の挿絵(全183回)を、8月14日から翌1927年6月10日、『大阪毎日新聞』夕刊に大佛次郎の「照る ……
小田富弥さんが亡くなってから、34年と312日が経ちました。(12731日)