黒田長溥(くろだながひろ)
筑前福岡藩主[日本]
1887年 3月7日 死去享年77歳
黒田 長溥(くろだ ながひろ)は、江戸時代後期の大名。
筑前国福岡藩11代藩主。
養父斉清と同じく蘭癖大名であり、藩校修猷館を再興させたことで知られる。
生涯=
文化8年(1811年)3月1日、薩摩藩主・島津重豪と側室・牧野千佐との間に重豪の十三男として生まれる。
千佐は家臣の家で働く身分の女性だったが、重豪も圧倒されるほどの大柄で大酒飲みだったと言われ、惚れ込んだ重豪の求めによって側室となった。
そんな母の血を継いだ長溥もまた大柄であった。
2歳年上の大甥・斉彬とは兄弟のような仲であったという。
黒田家入り=
文政5年(1822年)、第10代福岡藩主・黒田斉清と正室・宝林院(二条治孝の娘)の娘・純姫と婚姻、婿嗣子となる。
養父同様、将軍徳川家斉の偏諱を授かって黒田斉溥と称した(家斉は斉溥からみて養父の伯父、また姉の広大院が家斉の御台所であることから義兄にあたる)。
天保5年(1834年)11月6日、斉清の隠居により家督を相続した。
就任後は実父の重豪に倣って近代化路線を推し進めた。
現在は歓楽街で有名な中洲の一部である博多岡崎新地に、精練所と反射炉を建設した。
次いで見込みのある藩士を積極的に出島へ派遣し、西洋技術の習得に当たらせた。
藩士たちの一部から福岡県で最初の時計屋や写真館を開く者が現れた。
蘭癖と称された斉溥の西洋趣味はこれに留まらず、オランダ人指導の下、蒸気機関の製作にも取り組んだ。
他にも医 ……
黒田長溥が亡くなってから、137年と259日が経過しました。(50298日)